「草アート」 県立美術館という名のチャンス
モダンなロダンのロマン 上
< ロダンの名言の数々 >
時として天才と変人との言葉の差は紙一重である。
名言1””いや、これはまったく「歩く男」だ!””
名言2””胸が貧弱なので、おお!これらの線、このイギリス女たちの身体の構造と言ったら””
名言3””なんとめくるめくことか!服を脱ぐ女性は!!””
県立美術館には「ロダン館」というロダン彫刻に親しめる最高の環境が用意されています。
が!一体ロダンとは何者なのか??まず、それが問題であります。
そこで、今回はそのロダンの波乱万丈の人生をダイジェストで紹介しようと思います。
ここで、興味を持ったらしめたもの。
県立美術館はあなたにとってかけがえなき美の殿堂として、あなたの人生に彩りを添えてくれる事でしょう!
<今再び明かされるロダンのモダンな生涯>
(上)
1840年11月12日パリで生まれる。幼い頃から近視,文章がへたくそであったため、
ラブレターよりラブ彫刻で愛を表現したがっていた。
1850年代 高等学校卒業後,貧乏生活が始まる。
姉のマリアが失恋のショックで25才の若さで亡くなると、世を捨てて修道院にこもったが、
彼の才能を見ぬいた神父に「おまえはここにいるべきでない」と言われ、
置き土産に神父の彫刻を彫って、俗世界に戻る
(その彫刻はやけにしかめ面だった為、神父は気にいらなかった)。
1864年、初恋相手ローズと出会い、
2年後にすかさず子供をつくってしまう。
彼女は無骨な田舎娘ではあったが、素朴で忍耐強く、
結局最後の最後までロダンを捕らえてはなさなかった。
売れっ子の彫刻家だったカリエ・ベールズのもとで鍛錬したロダンは
1871年、ローズと子供をほっぽり出して、ベールズを追ってベルギーへ行ってしまった。
そのくせ、ローズに何度も手紙を書いたりする軟弱者、いい言い方をすれば繊細だった。
しかし、愚かな事に、カリエ・ベールズとの約束を破って、
自分の名前で作品を出した為にすぐさま回顧され、またローズにグチる.
だが、なんとかその危機を打開したロダンは、彼に決定的な影響を与えるイタリア旅行に出る。
それはミケランジェロの彫刻によるインスピレーションだった。
その後18ヶ月をかけてつくりあげられたのが『青銅時代』と言われる彫刻であるが、
ミケランジェロのインスピレーション効果で華々しくデビューのはずか、今にも動き出しそうなほど
本者の人間そっくりだった為に「型取りした」と大批判が巻き起こってしまう。
お堅いアカデミズムに反発し、静止している彫刻にいかに生命(動き)を
吹きこむかに腐心したロダンは、モデルにも自由に動かせてその中の一瞬を
捕らえて彫ったと言う。そのロダンが「型取り」などするはずがない!
絶望のあまりまたもローズに甘えたり、著名な彫刻家が取りなしに入ったりしたが、
結局『青銅時代』に当時は碌に「芸術」として光が当たる事はなかった。
「有無を言わさず自ら一人ポーズをとった」と言われる謎の素人モデル(40歳)からつくった次回作の
『洗礼者聖ヨハネ』も、裸だった為に「醜さとくだらなさの限界を掠めている」と酷評された。
「未完成の趣味」をあらわにした『歩く男』は、のちのキュビズム(ピカソらの美術思想)に影響を
与えたが、公共記念碑製作時代を経て、着々と大作『地獄の門』への下地を築いて行く。
< 続く >
注:
ちなみに『地獄の門』の直前には様々なセーブル磁器に没頭した時期もあるが、
その時加わった運動が、ジャポニズムの影響を受けたと言われる。
(とりわけ当時起こったアール・ヌーボーは、日本芸術の影響を深く受けたものの最たる例である)
(参考図書 『ロダン』 モニック・ローラン著 1989年 中央公論社)
(参考 県立美術館無料講演会『ロダンと日本』 講師 県立美術館館長 吉岡 健二郎氏)